Tuesday, March 06, 2007

「強制なしに誰が慰安婦になるというのだ」━元皇軍兵士父の遺言 安倍発言を怒る

1993年夏。父逝去の3ヶ月前、日本の某大手メディア企業に心底愛想を尽かし、仕事のあてもなく衝動的に依願退職する1年前のことだった。死の床にある父を見舞った際、フィリピンに初めて訪問したことを伝えた。これを発端に、当時メディアを賑わしていた従軍慰安婦問題が話題となった。父曰く。「わしは満州で慰安婦の管理を担当したことがある。彼女らは日本軍の命令を受けた指名業者が強制連行してきた。業者も慰安婦も砲弾飛び交う戦地に強制なしにどうして自発的にやってくるのだ」。その言葉には怒りが込められていた。当時の日本のメディアが「民間業者が慰安婦を(商いとして)自発的に戦地に連れてきた」との政府の「公式見解」を垂れ流していたからだ。(花崎渉)   

故人は1914年生まれ。「青年期を戦争に身を“捧げた”」いわゆる大正っ子世代である。専門学校中退後、20歳で現役召集された。徴兵期間中、上官に勧められて、あの小野田寛郎さんと同じ陸軍予備士官学校で学んだ。修了後は砲兵となり、朝鮮半島、旧満州、上海、インドシナ半島、重慶などアジア各地の戦線を10年以上転々とした。真珠湾攻撃から1ヵ月後には上海からマニラに入り、数ヶ月滞在した。直接関与した満州だけでなく、フィリピンでも従軍慰安婦の「招集」に間接的に関わったと語った。フィリピンでは日本軍の担当将校が業者を指名するとともに、業者とともに慰安婦集めに兵士が関与したと断言したことは脳裏にはっきりと焼きついている。   

先日の日本の内閣総理大臣安倍晋三の「軍が直接強制したとの証拠はない」との発言報道に接して全身から怒りが湧き起こってきた。敗戦後10年以上も経って生まれた2世議員。日本が欧米列強にキャッチアップする手段として選択された近代天皇制が内包していたファシズムと侵略戦争の不可避性という歴史への省察はもとより、一度も世間を底辺からのぞいたことも、ましてや貧困がいかなるものであるかを体験したこともない「お坊ちゃま」世襲議員である。弱者の立場、心情を知らないが故に、観念だけで容易にナショナリスト、タカ派になれるのだ。世襲議員が「支配」する永田町が超保守化する所以であろう。   確かに、父の死後、当時の防衛庁資料がスクープされ「(業者を介して)軍が関与していた」ことが明るみに出る。したがって安倍発言は「業者が強制した」「軍が業者と関わった」ことまでは認めた。しかし、「憲兵などが直接強制して現地女性を慰安婦にした証拠は認められない」と詭弁を弄して「(事実上)強制はなかった」と強弁した。   

仮に百歩譲って「軍が慰安婦集めに直接手を下さなかった」としても、旧日本軍が強制して女性を連行したことに変わりはないでないか。安倍を典型とする戦後の豊かな世代に育ったニューナショナリストの精神構造はわれわれの理解をはるかに超えている。A級戦犯としての処刑を偶然に免れ、首相にまで上り詰めた妖怪の異名を持つ祖父岸信介らの影響だけでは説明がつかないものを感じる。   

亡き父ら慰安婦問題に直接関与した旧皇軍兵士らの大半が草葉の陰から安倍の詭弁に憤怒の声を上げていることだろう。死の床で父はこうも言った。「軍は戦地への慰安婦連行をいやがる業者を強制した。前線・戦地の外にいる軍が民間業者に無理やりに協力させて現地女性を戦地まで連行したのだ」と。安倍の「(軍直接関与の)証拠はない」との発言は何に依拠した断定なのか。管見する限り、これを追及した日本のメディアはない。相変わらず転向主義者特有の理念なき「客観」報道を続けている。   

父はビルマ(ミャンマー)で「ありとあらゆる種類のマラリア病原菌を患った」(主治医)。敗戦後は強烈な反戦主義者となった。幼少のころの夏休み。8月15日の「終戦記念日」が近づくと耳にたこができるほど10年を超える従軍生活での悲惨な体験を語り、「2度とあんな馬鹿な戦争はするものじゃない」が口癖だった。戦死した同僚だけでなく、父らの後方からの砲撃で内臓を体外にはみ出して悶絶している中国人兵に遭遇すると合掌しながら安楽死させたという。   

1950年代半ばになると父は断続的に原因不明の高熱に襲われ始め、「マラリア後遺症の疑いあり」と権威ある旧帝国大学医学部教授に診断された。やがて大学病院のモルモット患者になり、またまた数え切れないほどの抗生物質を実験投与され、体調はさらに悪化した。当時で年間10万円にも満たなかったはずの軍人恩給支給額では仕方のないことだった。歴史を詭弁でもって歪曲する安倍発言は父ら恵まれなかった「大正っ子」の生涯をも冒涜するものである。 

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